[人間関係で消耗]
人間関係でまた消耗してきました。仕事で外国人と英語で話をせねばならず20分ほど話をしてきました。その20分のために、ここ2週間ほど準備をしたり、憂鬱な気分になったりしていました。
いちおう無事に和やかに話は終わり、問題はなかったといえば、なかったのですが今ひとつ話は盛り上がらず、準備したことの半分しか話すことができませんでした。
話が盛り上がらず終わった後の脱力感と虚しさを感じるたびに、僕は人と交流は向いていない、セミリタイアすべきだと痛感してしまいます。
[傍観者になりたい]
僕は傍観者となって、ゆったりと世間を傍観していきたいと思っています。他人と積極的に関わらずただひたすら静かな生活を送りたいのです。世の中には、人とあまりかかわらない方が幸福になれるタイプの人間がいて僕はそのタイプだったということです。
[永遠の命がほしい]
正直なところ、永遠の命を持つ火の鳥となって人の世の営みを観察し続けたい心境です。感情的になったりトイレに行く必要があるのも面倒くさいのです。だんだん歳をとって体が動かなくなったり、病気になったりするのも避けたいところです。
火の鳥となることが無理そうなので、できることといえば、テレビや新聞、ネットなどで世の中の起こったことを見ていろいろ考えることくらいです。結局誰でもしている当たり前事ですが、傍観して社会の出来事を観察して自分の頭であれやこれや考えてみたいと思います。
[やはり傍観者としてのんびり生きたい]
傍観者というより思想家、研究家というものになりたいのかもしれません。他人と関わりたくないという意味では確かに傍観者ですけれど。社会や歴史についてあれやこれや思索して、経済や囲碁将棋について研究して毎日のんびり過ごしたいのです。
思索や研究の報酬として、月100万くらい国家が僕に払ってくれないでしょうか。払ってくれないでしょうね。わかってはいるけど、そういうことをよく思索してしまいます。
[傍観者として生きるメリット]
傍観者として生きると決意すれば感情的になったり、腹を立てたり、他人と競争することを避けるようになるので平穏な生活をおくりやすくなります。
[どんな人生も尊重されるべき ]
傍観者として生きるな、舞台にたって自分の人生を生きろという意見も聞きますが、傍観者として生きる、舞台に立たずに生きるという決断をしたわけで、それが自分にとっての大切な人生なわけです。
どんどん挑戦しまくって傷ついても失敗しても挑戦し続けて、それはそれで立派な人生ですが、挑戦しないという人生も同じように尊重されるべき人生なのです。
他人と比較して劣等感を感じたりせず、傍観者として生きていきたいと思います。残りの人生がどれくらいかわかりませんが、静かな気持ちで生きていきたいです。