自由を求めて

セミリタイアを目指す40代会社員の日々感じたことの記録をしていこうと思います。連絡先はkenkou146@gmail.comです。

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M1グランプリを3年分見て漫才の限界を感じた

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最近自分の中でお笑いブームが起こっていました。Youtubeにある島田紳助の動画をなんとなく見たら面白くてはまってしまいました。過去のバラエティの面白い部分がたくさんアップされているのでいろいろと見ていました。ネットフリックスに過去のM1グランプリが全部あるのに気がついて見てみようと思いました。2001年、2002年、2003年を見てみました。

 

[漫才という表現は厳しい]

漫才を見続けて感じたことは漫才を見続けることはキツイということです。何千組という中から選ばれた漫才師の漫才ですが見るのがキツイのです。面白いと感じる漫才もありますが8割くらいは見るのがきついのです。その面白い漫才にしてもある程度、集中して聞いていないと面白さがわかりません。漫才は何か作業をしながら気楽に笑うという表現方法ではないということです。

 

2割の面白い漫才を聞くために残り8割のつまらないと感じる漫才も集中して聞かないとならないのでかなりキツイのです。何千組という競争を勝ち抜いた漫才でも8割は面白いと感じないということは面白い漫才を作るのがそれだけ難しいということでしょう。1本面白い漫才を作るのがそれだけ難しいなら漫才で番組を作るのも難しいでしょう。漫才でスターになるということも本来不可能なことです。

 

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[笑いの評価は難しい]

笑いの評価は難しいと感じました。年齢、性別、地域などによっても何を面白いと感じるかは違うでしょう。そういう意味では一番面白い漫才などは存在しないのかもしれません。僕が見ていても審査員が高く評価する漫才がまるで理解できないということが多かったです。反対に自分がなんとか理解できる漫才に限って低評価だったりします。

 

若手芸人にチャンスを与えるという意味でM1などのコンテストは意味や意義があるのかもしれません。しかし笑いという表現方法で勝敗を決めるのはもともと無理があるように感じました。

 

[フリートークがすべて]

M1で優勝したり決勝に進んでもその後あまりパッとしない漫才師もいます。キングオブコントなどで優勝してもその後鳴かず飛ばずという人もいます。逆に優勝しなくても決勝に進まなくても売れっ子になる人はいくらでもいます。結局お笑い芸人で売れっ子になるとはバラエティ番組によくでるということとイコールです。極端な話、漫才やコントなどまったくやらなくてもバラエティ番組で面白い話ができればそれでいいのです。

 

実際売れっ子になって漫才やコントをやり続ける人は少ないです。漫才やコントは世に出るための道具であってずっとやるものではないということです。だから漫才やコントが面白くても消えていく人がいます。一方そんなに面白くなくてもバラエティの雰囲気に馴染んでいる芸人は売れっ子になったりします。芸人にとってはフリートークがすべてと言えます。漫才やコントはあまりに多すぎる若手芸人を選別するための道具にすぎません。

 

[まとめ]

忙しい現代人が集中して漫才を聞くというのは難しいのかもしれません。情報バラエティとかクイズ番組とか食事をしながらでも見れる笑いが求められているのです。M1も1年に1回だからなんとか続いているのでしょう。

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