[親しくても友ではない]
ベルセルクと言う漫画を今さら説明する必要はないと思います。僕は10年前に一度読んだことがあるという状態でした。NETFLIXに映画版テレビ版があったので懐かしくて全部見てみました。
改めて見ても鷹の団が活躍するあたりの話はとても面白いです。その中で主要人物であるグリフィスが語る言葉に印象的なものがありました。
「彼らは何度も一緒に死線をくぐり抜けた大切な仲間ですが友ではありません。自らの生きる理由は自らが定める。決して他人の夢にすがったりしない。その夢に立ちふさがる者があれば全力で立ち向かう。それがこの私であっても。友とはそんな対等の立場の人間だと思っています。」
友達の条件がとても高尚というか厳しいものです。僕はグリフィスの友達にしてもらえそうにないなあという感じです。主人公であるガッツはこの言葉を聞いてグリフィスの元を離れる決意をします。
グリフィスの元にいれば地位も名誉も保証されたのになぜ離れる決意をしたのか10年前はよくわかりませんでした。改めて見て思うのはガッツはグリフィスの友人でありたかったからグリフィスの元を離れることにしたのでしょう。
しかし離れてしまえば会って話すことも一緒に戦うこともできなくなります。限りなく赤の他人に近くなるのです。本当にそこまでする必要があるのだろうかと理解できない部分は今でもあります。
しかもグリフィスはガッツを友と見ていたと思うのです。損得抜きで命がけでガッツを救出したのは大切な友だったからではないでしょうか。
「俺がお前を命がけで救うのにわけなんてないよ」
「幾千幾万の敵味方の中でお前だけが俺に夢を忘れさせた。」
グリフィスにとって命がけで守らなければならない夢でさえ忘れさせる存在がガッツだったわけです。個人的にはグリフィスとガッツが協力して成り上がっていく物語が見たかったです。
[対等の立場]
友人とは対等な立場です。どれだけ仲が良かろうと親しかろうと気が合おうと対等の立場でなければ友人にはなりえません。上司と部下、教師と生徒、商売人と客など、いかに人間は平等と言ったところで立場が違うと友人にはなれません。
ガッツはグリフィスと対等の立場になりたくてグリフィスの元を去っていこうとしたのだと思います。しかし、もし本当にグリフィスの元を去って言ったとしたらグリフィスに会う用も特になく完全に縁が切れたでしょう。その状態で2人は友人と呼べるでしょうか。
対等の立場の人間でなければ友人となることができず対等の立場になったら特に会う理由もなくなるというのは現実でもよくあります。職場を辞めた人間とは、どれだけ気が合ってもほとんど会わなくなります。友人を満たす条件は極めて難しいものだなあと思います。
そう考えると友人がいて交流があるということ奇跡的に素晴らしいことかもしれません。僕自身、親しかった人達とだんだんと疎遠になり、しみじみとそんなことを感じています。
[ガッツの唯一の友人はイシドロかもしれない]
グリフィスの友人の定義を考えるとガッツにとっての友人はイシドロかもしれないと思います。イシドロは自らの生きる理由を自ら定め他人の夢にすがったりしません。あくまでガッツと対等の立場です。
損得勘定でガッツについて行っていますが、それだけではなく仲間のために命がけで戦ったりもします。単なるお笑いキャラかと思ってましたが、唯一友人といえるのではないでしょうか。
「まとめ」
グリフィスのセリフから友人というものについて考えさせられました。そして鷹の団にいた頃は間違いなくガッツはグリフィスの友人だったと思います。
友人というのは、あくまでも対等な立場で常に疎遠になってしまう可能性を秘めています。友人と交流があるということは素晴らしいことだと思います。アニメの後半ではガッツがイシドロ達と旅をして幸せそうだったのが良かったです。